タカオ日記  


7/2
 17402
6月26日に、四国から帰ってきて、1週間近くになる。なかなか現世に戻れないのが実感。まず、身体が言うことを聞いてくれない。あれだけ歩いていたのに、着いた日から、足は、歩くことを拒否する。一歩も前に出ない。関節の油が切れたように、ぎすぎすと音を立てて抵抗する。肩は、鉄板をかぶせたように動かない、痛みがはしる。この身体が昨日まで、四国で元気に歩いていた同じものかと思う。身体にたまったものを今記録しておかないと、薄れる恐怖に襲われる。


7/6  17465
7月4日に広島を出発して、新幹線新大阪・地下鉄難波経由南海電車で高野山へ納経に行った。南海電車急行で1時間40分あまり、電車は橋本を過ぎたあたりから山間に入り、山岳電車のように深い谷間をぎしぎしと電車は音をたてて登って行く。極楽橋からケイブルカ−に乗り換えて5分余り。ケ−ブルカ−は急勾配を一気に1000mの標高高野山駅へ着く。。高野山駅からバスで20分、奥の院へ直行。母も一緒に行ったので、参道を考え車椅子を借りて参道まで行った。金曜日とあって人は少なく、ゆっくりとお参りが出来た。有名企業の供養と及び歴史で学んだ人たちの供養塔が20万基も並び、老木とあいまって荘厳な雰囲気の中本堂に到着、、白衣に着替えて線香を備え般若心経を唱えた。納め札を持って無かったが、僧呂に分けてもらった。
参道で、四国で会った歩き遍路の若者にあった。64日かかったと言っていた。私も髭をそり傘もはずしていたので、かすかに記憶にあるがどこで会ったかは分からない。私も、彼が普通の格好に変わっているので分からない、ただ、お互いに歩遍路であることは分かった。宿泊は、広島の極楽寺の住職に教えてこらった龍泉院というお寺の宿坊ににした。なかなかの設備が施されていた。四国の多くの宿坊と違いさすが高野山だと思った。障子を開けると、教科書に出てくるような庭が待っている。食事もお膳で、僧呂が全て準備して下さる。部屋の外に出ると、わざわざ駆けつけてきて用事を聞いて下さる。5日は、6時から40分程、本堂でお勤めをしてから朝食となる。浜田屋のゴマ豆腐きち絶品と聞いていたが、まさに今まで食べたことのないほどの食感と味。極楽寺の住職が「僧呂は精進料理と言いながら、毎日こんなおいしいものを食べてるとは思わないで下さい。」「納得」せっかく来たので、高野山を散策する事にした、母が足が悪いので、無理のない距離にした。総本山 金剛峰寺にまず行った。ここでも納経をしてもらった。多くの観光客が建物の中を見学していた。すばらしい襖絵や庭など、本物のすばらしさがひしひしと伝わって来る。その後は、金堂と大伽藍を見て回った。小さな町ではあるが、歩くとなると距離がある。昼食に、ごま豆腐を頼んで食べてみたが、浜田屋の品物には、かなわなかった。お店を探して買いに行ったが、日持ちがしないので、少量だけ買って帰った。1日もすると硬くなり、味が落ちるらしい。金剛峰寺の納経所で、歩き遍路らしき若者に出会った。何故か、見るとすぐに分かる。同じ雰囲気を持っているから。大抵は、88番札所を終了後、41kmある1番札所にお礼参りをして、結願する。そこから徳島港へ出て、24時間営業しているフェリ−で2時間半かけて和歌山へ行き、そこから電車を乗りついで高野山へたどり着く。その若者も白衣こそ着ていないが、疲れ果てた姿でひっそりと納経を済ませていた。まわりにいる団体や観光客とは、ずいぶん雰囲気が違う。このことは、四国を回っていても、お寺で同じようなことに遭遇した。「何日かけて回ったの」「36日です。」「早いね、私は49日。」「足が痛くて」「そうだろうね、私も歩いてるときは、そうでもなかったけれど、いったん終わって広島から出直したんだけど、なかなか身体と心のバランスがとれなくて、社会復帰に苦労してる。体中の油が切れて、ぎしぎし言ってる。がんばって!」そんな会話を交わしてその場を去った。どこから来たのかも聞かなかった。旅の中、普通ののことではあるが、素性はお互いに話さない。高野山に行き、身体は苦しい程に辛かったがこれで、一区切りついたのか翌日の朝は、気持ち・身体が楽になった。これでやっと現世に帰れるのかもしれない。

7/7 17497

7/9 17542
今、旅の整理に追われている。記憶を残すために旅の途中に書いたメモをもとに、旅日記を作っている。記憶のない日もある。最終的には、写真を見ながらする。岸本さんから写真が届いた。なかなかうまくなってきている。最初は、何を撮っているのか判らなかったが徐々に的が絞られている。私の写真が多いのもいい思い出になる。病院に行った。肩の調子が改善されないので、整形外科に行った。肩に直接注射を打った。余り経過が良くないらしい。旅でリュックを背負い続けたのも良くなかったらしい。姿勢をちゃんとすることから始めるように言われた。帰って来たときは完全に身体は前傾姿勢になっていた。50日近くも荷物を背負ったのだからしかたがない。リハビリに通うことになった。しばらく旅の後遺症は続くであろう。股関節の痛みは先生に言わなかった。


7/13 17627
社会復帰を徐々にし始めた。リクル-トの黒石さんにも会った。ゆかり屋の久留島さんをはじめ、幹部の人に会った。昨日は、娘の亜子ちゃんの会社の上司の正路さんに広島空港で会った。お遍路の話が聞きたかったらしい。空港では、オクダカメラの仲伏店長にあった。旬遊の宣伝を頼んだ。空港の書店でもすでに販売していたが、私が撮影を担当しているとは知らなかったようだ。右肩は、リハビリの効果があるのかどうか判らない。痛みは常時ある。デザイナ−の黒川さんが、四国の写真を見に来た。旬遊に掲載するかどうかの判断に来た。最終的には、発行人の杉川さんが判断するが、杉川さんは、最終日に苦行をしているので、どう判断するかは興味ある。


7/15 17664 
14日は久しぶりに写真教室が2つもあり、かなり神経が疲れた。日記も最終段階に入ってきた。撮影したプリントと地図を見ながら、抜けている箇所を補強している。今朝、四国から帰ったから2回目の、早朝散歩に出た。5km程の距離。50mの山を目指して行った。たくさんの人が歩いている。出発の前の時に歩いていた人にも会う。昨日、画材屋さんに行って、結願証明書と納め札を額装してもらうよう頼んだ。

7/17 17727 
16日。四国で会った人たちに送る写真の整理を始めた。封筒に住所を書き込んだが、約50通あった。宛名を書きながら、旅の事を思い出す。夢のような日々だっことを知る。現世は、なかなか雑用と神経を使うことが多い。女房は、また、行くと言っているが現実から逃げるわけにはいかないので、早くもどらねばならない。体重も少しもどって来た。体重というよりか、身体に丸みが出てきた、緊張した筋肉がゆるんできたのだろうか。相変わらず肩の痛みはとれず、ストレスになり根気が続かない。あと注射を3本肩に打てば治るかもしれないと、なぐさめてはみるが、改善の兆候はない。

7/18 17749
先日、空港でお会いした正路さんからお菓子が届いた。麻布十番の名物らしい。亜子ちゃんの会社の上司。四国の話しを聞きたいということで空港まで出向いた。感動したらしく、来年歩き遍路をすると計画を知らせて来た。3月の時期がいい頃。1年で10ケ寺を10年かけて回るとのこと、まさしくマイぺ−ス。これも人生。日記を掲載しはじめたら早速反応が帰ってくる。孝太郎君も書いているらしい。いずれ、HPにアップするとのことなので、楽しみに待つことにした。久しぶりに、1日家にいた。

7/22 17895
21日スタジオを昼から休業して、四国に出発する前に相談に行った方々に報告に行った。20kmから40km離れた場所。染と茶(レストラン)の中道さん夫婦、休日で忙しそうにしていた。新婚旅行をシルクロ−ドに行った人。30年も前。ログハウスビルダ−の松田さん夫妻。兄貴のような存在で、行くと心が落ち着く。的確なアドバイスをくれる。ついつい夕食にかかり、慌てて帰った。前回も夕食をごちそうになった。はるのゆうに・日高摩梨夫妻。ガラスア−トとシャンソン歌手。四国に行くと言った時、身体の具合を心配してくれた。気を送り続けてくれた。案の定身体がぼろぼろと言われた。無茶苦茶な人だからと言われた。ひさしぶりに、のんびりと落ち着いた気分の1日だった。


7/23 17961
やっと四国の時にお世話になった方々に写真を送ることが出来た。50通あまり、HPもだいぶ整備出来てはきているが、まだまだ。やじうまは金曜日に折り込みされる。


7/24 18017
朝、41番札所の門前の、「食事処 長命水」の女将さんから電話があった。写真が届いたとのこと。

7/25 18056
昨夜、44番と45番の間の国民宿舎の前であった、山内さんからもお礼の電話を頂いた。写真家であることを伝えていなかったので、大変だっただろうと言われた。33番札所の前にある「民宿 高知屋」さんから連絡があったらしい。足摺の近くの「くもも」さんの女将さんからもメ−ルが来た。波多野さんがずいぶんお世話になったようだ、HPの日記に詳細に記載してあった。孝太郎くんからもメ−ルが来ていた。夕方から海水浴の会議があった。ふざいをしていたので、全体には遅れ気味であったが、なんとか出来そうな雰囲気。230名くらいのイベントになりそうだ。

7/26 18109
新居浜の喜代吉さんからメ−ルが来た。写真のお礼。「さて写真ですが、少し異様な?面白いイイものを有難う御座いました。カメラが違うのだろうと云うことでしょうか。」評された。「開高健のような雰囲気がして、いいなと思いました。」と返した。旬遊の編集について、竹本カメラマンと話しをした。その後、黒川デザイナ−に二人で行き、話しをした。最後に、杉川さんにも会って話しをした。いよいよ2号の制作にかかることになった。時間が無いので大変なスケジュ−ルになりそう。

7/27 18136
6/240番札所を過ぎて泊まった、磯屋さんの女将さんから電話がかかった。岸本の親父さんのことを心配していた。ツバメのいた高橋旅館(43と44番札所の間)大洲市の寿旅館からハガキが来た。岸本の親父さんから、そして茨木市の渡邊(通称 山岳部)さんからも手紙が来た。お遍路のホ−ムペ−ジの中から見つけた人の日記を読むと、88番あたりでの気持ちの持ち方などは、大いに共通するものがありびっくりした。渡邊さんも同じような内容の手紙を下さった。お四国というのは、歩いた人に共有できる精神的な要素があることを知る。

7/28 18159
日曜日、友人に頼まれて国会議員の報告会に参加した。ライブハウスに70代を中心とした方々が集まり、本人の報告を30分程度聞き、その後ハワイアンバンドの演奏を聞いた。何故か異様な雰囲気があった。私の世代の人もいたようだが1時間30分は疲れた。後で、個別の部屋で昼食でもと言われたが、早々に失礼した。1日が長く感じた。本人も選挙が近いし必死に対応しているが、心がどこかにあるのではないかと思った。立場上仕方のないセレモニ−なのだが、もっと激論をとばして欲しかった。出るときに、本人が挨拶に来られて握手を求められた。「宇品共和国の藤原です。」「ああ、・・・・」という返事が返ってきた。知ってはいたようだ。ゆっくりと話しをするような場面ではなかった。四国のHPの画面を少し整理した。
7/29 18208
岡野千春さんよりハガキが届いた。写真教室に井槌病院長の田中さんが写真教室に来られた。千葉の大嶋さんからメ−ルが届いた。パソコンを購入されたとのこと。連絡がしやすくなった。柴田さん渡邊さんの写真をメ−ルで送ってあげた。確認。今、四国お遍路さんの日記を読んでいる。平成12年に歩いた人。自分の日記を読んでいるような錯覚に襲われることがある。早く、写真を整理しなくてはならないと焦るが潜在的に見ていた四国の姿が浮かび上がって来る。実際に見たことではなく、感じたことが今頃になって頭に湧いてくる。不思議な現象。写真の、多分見せたところで私が感じた事とは違った捉え方をするのだろうなと思う。これは、宿命でもある。特に今回は、モノクロのフィルムを使い、使い慣れないカメラを使ったことで、今までにはない表現が出来ている。奇抜さもなく、自然体で感じたものを淡々と撮っている。これが不気味にも思える。

7/30 18258
まだ、冷静に自分の作品を見ることが出来ません。見たものと、帰ってきて心に湧いてくるもののギャップがあります。心に感じたものが一致するまで時間が欲しいと思います。」東京の村越さんにメ−ルした。この方は、コダックサロン(銀座)の館長を最近までされていて、今は写真専門学校の先生をされています。「写真は、一人称 二人称 三人称がある。どれ?」と問いかけられます。批評はされません。「自分が一番よく分かっているでしょ。」1枚の写真を送ったらこんなメ−ルが帰って来ました。「四国遍路の結願も成就されたのこと、おめでとうございます。添付の写真を見させて頂きました。この一枚の写真で小生の感想を言うのは大変難しい限りですが、この作品の女性のまなざし、雰囲気は藤原さん自身の今の気持ち、状況を表しているのではないでしょうか。小生にはそのように感じました。機会があれば他の作品を見てみたいと思います。
会社で会議があった。すばらしい才能がありながら、いつも逃げる姿勢で仕事をしているスタッフについてでした。正面から立ち向かわない。言い訳を考えながら仕事をしている。出来ないことは、人のせいにする。残念なことである。傷つくのが怖いのか、今が勝負なのに、また、逃げようとしている。

7/31 18308
坂出の方から、貝のお守りをたくさん送ってもらった。金沢さんから電話をもらった。天皇・渡邊さんは知らなかった。最初の頃、同宿だった田口さんに連絡がとれた。結局、29番まで廻って帰ったそうです。この秋に再チャレンジしたいと言ってました。高知の33番札所に行く途中、造船所の中の組合で、お茶とお菓子を接待していただいた方からお礼のハガキが来た。岸本の親父さんと初めて話しをしたような気がした所である。宿泊地と同宿人の整理をしているが、メモしていないのでなかなか思い出せない。同宿人については、意識する前に同宿していたかどうかが記憶にない。みんなにメ−ル等を送って聞いている。岡野さんは、東田大師堂に土曜日に行くと連絡があった。こちらからもメ−ルを打っておいた。孝太郎君も日記のHPアップを準備している。草案が来た。